【セクシー田中さん】映像化(メディアミックス)に際しての原作者の著作権(権利)を考えてみた【作家と脚本家と脚色家】
さあ、今日も戯れ言《
この記事は2024年02月07日が初アップだ
【引用元――セクシー田中さん(作者:芦原妃名子、小学館/姉系プチコミック)より抜粋】
通常、映像化企画は3~2年前から動き出す
これは当ブログの様なマイナーメディアであっても書くべき記事だと思った。
芦原先生の無念と絶望を無駄にしてはならない。
どんなカタチであれ、1つでも多くデジタル媒体にこの件は遺されるべきだ。風化させたくないのである。人間の命が1つ散ったのだから。というわけで、つらつらと語っていこう。
映像化企画が立ち上がるのはいつ頃から?
映画は公開の3年前から。
アニメとドラマは放映の2年前から。
最低でも、これくらい前から企画が通っていないとProjectとして成り立たない。
理由は非常に簡単だ。アホでも分かる。
・製作スケジュールを詰めて、各会社に仕事をオファーする猶予期間
・実際に制作を行うスタッフのスケジュール確保
・役者や声優のスケジュールを確保
・主題歌やBGM等の発注・準備期間
企画が通り、半年や1年で全てを「よーい、ドン」で作れないのは、ちょっとでも想像力があれば容易に理解できると思う。歌・音から役者や撮影編集まで全てが1社のみで完結できる環境ならば、半年や1年で全てを「よーい、ドン」が可能かもしれないが、そんな会社など存在しない。
企画が通ってからの流れ
イコール、スポンサーから予算(制作費)が降りてくるという事だ。
オリジナル(の企画)ならば話は単純である。
プロデューサーをはじめとした監督・演出・脚本家(多くの場合は監督か脚本家の原作)達によって、内容とストーリーを詳細に詰めていく。自分達に著作権がある代物なので「好きにする」権利がある。誰にも気兼ねなくオリジナリティを発揮すれば良い。ただし、オリジナルの場合、出資者が内容に口を出してくる場合もありそうだが。
――問題は「原作付き」で企画が通ったケース。
真っ当なルートだと、企画が通った時点で「オリジナルの著作権を有している原作者」に、作品の二次創作使用許諾を得る契約をしなければならない。
海外だと、ここで制作者側と原作者側(多くの場合は代理エージェント)によって、詳細な条件が盛り込まれた契約書が作られる。製作者側は契約内容以外のコトはできない。原作者側は著作人格権を行使しない旨とか、契約内容に沿った改変に口を出せなくなる。とにかく細かく規定されている。契約後は互いに余計な口は出せなくなる。それが契約(ビジネス)だからだ。よって契約書は相応に分厚くなる。
というか、契約社会であるアメリカなどは、労働契約を結ぶにしても契約書はそれなりの枚数になる。日本みたいに雇用契約書1枚ぽっきりはあり得ない。
それに対して日本の制作慣習――
口約束による手付け&使用許諾書1枚にサインとハンコのみっぽい。
映像メディアの制作慣習どころか、日本企業の契約のやり方および仕事のやり方では、大半のケースがこれに当たってしまうのだが。いわば「ジャパニーズ・仕事・スタイル」という悪しき習慣である。これはアルバイトでも会社で働いたことがある者は、多かれ少なかれ体験があると思う。
あれ? 最初の約束(話)と違くね? と。
いわば言いくるめて騙したモン勝ち。
契約社会の海外だと「最初の約束」が絶対であって、後から話が違うというのは契約としてあり得ない(違約金が発生する)。それだと契約と言えないからだ。
けれども日本は「口約束」で相手を言いくるめて言質を取り、その言質を盾に1枚ぽっきりの「やります、許可します」という書類に判を押させて、その後に口約束を「事情が変わったから無し」と反故にする手法が横行している。仕事どころか家族間でさえ。ゆえに海外の人は日本人をこう評する――「息を吐くように嘘を吐く」と。
『海猿』の実写化のケースであっても、原作者が用心して詳細な条件が記された契約書を交わしても、ほとんど契約内容すっとぼけた脚本第1稿が上がってきていたっぽい。なんとも原作者を舐めている話である。
余談であるが、ガチのアッパークラス(超富豪層)は「信用・信頼」こそが真の財産なので、絶対に口約束を破ったり裏切ったりしない。彼らの関係(ビジネス・コネクション)は信用と信頼で成り立っている。もしも口約束を反故にした場合、同じアッパークラスの社会から信用を失い、やがて脱落・没落していくから。
話を戻す。
よって既にメディアミックスを経験して、痛い目に遭っている原作者は「条件が合わなければ許諾を出さなければ良い」というスタンスになる。つまりドラマ化NGの姿勢だ。
実際、頑なに許諾を出していない漫画家や小説家もいる。推察だが『よつばと!』もアニメ化のオファーはかなり行っている筈だが、あずまきよひこ先生は首を縦に振っていない。前作『あずまんが大王』のアニメの出来にかなり不満があった模様で。それにお金については、ダンボーの版権で超儲けているし。
話がフラフラと揺れて申し訳ない。
ここまでを整理すると、だ。
①企画が通る
②原作者に許諾を得る
③スタッフを確保する
④スケジュールが決まる
⑤製作開始
⑥TV放映(劇場版公開)
道理的にこうでなければいけないわけで、②で原作者の許諾を得られなければ企画自体が終わり――①に戻るだ。そうでなければおかしい。これが正しいフローチャートである。
アニメ化の場合、原作者と良好なケースが多い模様
アニメ化の場合、原作者も会議に顔を出して意見を出す場合が多いらしい。
脚本のチェックはほとんどの原作者がやるし、小説が原作の場合は小説家である原作者が、何話分かの脚本を受け持つ場合もある。漫画原作の場合は、作画と原作に分かれていれば、原作者が脚本を担当もあるだろう。
漫画原作で漫画家が脚本や演出に出しゃばるケースもあるが、『ガンスリンガーガール』2期は明かに1期より不評かつ劣化していたので、不必要な原作改変がない限り、餅は餅屋でアニメはアニメ制作の専門家に任せた方がよいと、個人的には思う。
静止画と声・音つきの動画では作成ノウハウが違うのは瞭然だ。
制作が動き出す直前に、事後承諾で「なあなあ」狙いに
原作者の性格を分かっているプロデューサーは、原作レイプ(不要な魔改造)に敏感で簡単に言いくるめられない原作者に対しては、卑怯な手段を講じる。
真っ当な手順だと失敗確実なので、プロセスを以下の様に変える。
①企画が通る
②原作者に許諾を得るのを「後回し」
③スタッフを確保する
④スケジュールが決まる
⑤原作者に「半ば強引に」許諾を得る
⑥製作開始
⑦TV放映(劇場版公開)
こうする事によって「もう制作が始まるから、今さら引き返せないから、とにかく契約書にハンコを押してくれ」と、原作者の善意や良心に訴えかけられる。真っ当な手順ならば100%断られる案件でも、かなり成功確率を上げられるだろう。
実際に『海猿』『セクシー田中さん』は、この手法で原作者が諦めて丸め込まれた。ハンコを押したかったわけではないのだが、外堀が埋まっている(企画は既に動いている、今止めるとあちこちに迷惑が掛かる)ので、本当に仕方なしに譲歩したのだろう。原作使用許諾を突っぱねても、先走った計画に対しての損害に対し原作者には何ら責任はないのだが、原作者の良心と諦念につけ込む卑怯なやり口だ。
10月放映開始で、6月に許諾だからギリギリ
同年の6月ではなく1年前の6月ならば、真っ当な手順だと思う。
放映開始の約16ヵ月前に原作者との契約になるので、ドラマ化に対して詳細に芦原先生の要望が納得のいく形で結ばれていただろう。
だが、現実は違う――
5月:主演がベリーダンスのレッスン開始
6月:原作使用の許諾を取り付け
10月:ドラマ放映開始
時系列からみても騙し討ちなのは明白だ。
芦原先生は許諾を譲歩する代わりに「最低限、原作レイプはしない様に(意訳」との約束をドラマ制作者側にしたが、それも前途した「ジャパニーズ・仕事・スタイル」によるすっとぼけにより、反故にされてしまう。
原作者が持つ著作権において同一性保持権は、著作人格権と並んでいかなる契約においても破棄不可能なので、その権限にて芦原先生はドラマ1~8話の「原作レイプされた元の」脚本を修正に次ぐ修正に追われる事に。
その挙句、とうとう最後の9話10話は自分で慣れない脚本作業をする羽目になった。
まあ、酷い話である。
ってか、原作レイプ云々の前に「事前に交わした約束(契約)を守れよ」っていうだけの話だったりするが。
なお、芦原先生はドラマの出来(内容)に納得がいかなかった為か、BD/DVDの販売については許諾しなかった。よって未発売だ。
ドラマはキャスティング主導で原作レイプが起きやすい
声優事務所とは違い、俳優・タレントが所属している芸能事務所は(大手)は、業界に対しての力(影響力)が強いのだろう。
アニメ化の場合、原作サイドの強い要望がない限り、声優はオーディションが基本だ。
海外の実写でもオーディションによる実力勝負である。
しかし日本の実写界におけるキャスティングでは、事務所の力関係に依るコネが多い。
売り出したい役者ありきのドラマになる。
ドラマに合った役者ではないのだ。
そのドラマの売名として適切な原作がチョイスされ、上手く原作者を丸め込んで(あるいは蚊帳の外に追いやり)隙あらば魔改造してしまおうという魂胆だ。セコイというか卑しい。原作者に対してのリスペクトがゼロである。まるで原作に群がる寄生虫。
原作者が魔改造に納得して、正式な許諾契約内での改変ならば問題ない。
要は原作者が納得するか否かが全て。
でも『セクシー田中さん』はそうではなかった。許諾契約内ではなく、原作者の芦原先生が納得していないのに、どさくさ紛れの原作レイプとして突っ走ろうとした結果(終着点)が、今回の「人命が失われた」という悲劇だ。二度と起こってはならない。
ドラマは原作マンガの二次創作である
TVアニメだろうがTVドラマだろうが映画だろうが、または小説のコミカライズだろうが、逆に漫画のノベライズだろうが、例外なく二次創作だ。
著作権も二次著作権に過ぎない。
ぶっちゃけ、著作権として見ればTVドラマとエロ同人誌は、全く同じである。
共に二次著作物で、二次著作権しか有していないのだ。
よってドラマ『セクシー田中さん』も芦原先生の作品であり、原作マンガの二次創作(同人映像)に過ぎない。著作権が別に分離した独立作品ではなく、芦原先生の作品の同人二次創作ドラマである。
クレジットに原作者の名前がないという衝撃。
これではまるで、脚本としては二次著作権しか有していない1~8話の脚本となっている相沢友子が著作権者であり、ドラマ『セクシー田中さん』が相沢友子の作品(オリジナル著作物)とミスリードされてしまうではないか。
本来ならば、以下である。
ドラマ『セクシー田中さん』も芦原先生のモノ(著作物)である。
断じて相沢友子の作品(オリジナル)ではない。
「原作と同じじゃなきゃダメですか?」という頭オカシイ本
まともな感覚と常識をしていたら、「そりゃ法律(著作権)的にもダメに決まってんだろ」としか言い様がないのだが。
バカな戯れ言をほざくんじゃないよ。
作品を料理に喩えよう。
原作は二次創作の食材ではない。
それ自体で完成した1つの料理だ。
その料理を勝手に別の料理に造り変えるのは法的にタブーである。同一性の保持ってやつだが、ンなことは常識で分かるだろう。他人のオリジナルを自分のオリジナルにするとか、頭がオカシイのかと。バカなんじゃないかと。ナニ考えてんだよ。
TVドラマという同人映像作品(二次創作)に「原作者の許諾なし」で許されているのは、盛り付ける皿を代えるとか、盛り付ける量の調整とか、ソースの種類を増やすとか、そのレベルだ。完成している料理の上にカレールーやケチャップを「原作者の意向を無視して」大量にぶっかけるなっての。
繰り返すけれど、魔改造したければ手順②の段階で原作者と密に打ち合わせして、キッチリとした契約を交わせばよい。要は、約束を守れってだけの話だ。
問題の論点は「原作改変の是非」ではなく、事前に交わした原作者との「契約(約束)をちゃんと守れ」っていう事なのだから。
脚本・相沢氏、日テレを裏切る
お気持ち表明云々は、個人的には「今さら遅いしなぁ」という程度の所感しかないのだが、すごく大事なことをぶっちゃけた。というか、脚本家を責めるなと(一応は)味方サイドだった筈の日テレをサクッと裏切るとは。まさにザ・保身という感じである。
真偽はともかく「相沢、日テレから原作準拠の約束、聞いていないってよ」――という事は、芦原先生の死に対して脚本の私は悪くない、少なくとも私ではなくプロデューサーに非がある、とストレートに意思表示したわけだ。そりゃ、これから先の人生、ヒトゴロシの烙印を背負って生きていきたくはないわな。
日テレか小学館が「いや、相沢は嘘を言っていて、本当は原作準拠の契約を知っていた上での原作魔改造の脚本だった」という証拠を提示(もしくは反論)しない限り、この件でこれ以上 相沢氏を非難すると誹謗中傷になると思う。相沢の発言の真偽は問題ではなく、彼女は「知らなかった」と意思表示しているのだから。
芦原先生の自死に対しての責任は私(脚本・相沢)にはございません、責任は日テレさんか小学館さんのどちらかでーす、と一抜けしたのだが、この展開は予想外だった。
責任の所在を有耶無耶にしたまま、脚本・P・日テレ・小学館は揃って対外的に沈黙を貫くと思っていたから。で、このままダンマリ継続だと客観的にはPの責任という烙印を押されてしまうが、脚本が責任からトンズラした今、日テレ側はどうするのだろうか?
プロデューサーが土下座会見して、強引に幕切れと予想。
小学館・第一コミック局編集者一同が声明発表
作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ | プチコミック 公式サイト|小学館
このタイミング。小学館の担当現場(編集部)が、上層部・経営陣に対してクーデターを起こしたっぽいなぁ、この声明は。上に許可を得ているとは考えにくい。許可があっての小学館本社HPとX記載でも、あくまで「編集部より」のスタンスだ。
相沢友子に追従するカタチになったけれど、濡れ衣でヒトゴロシの業・世間からの後ろ指を「今後の人生ずっと」背負っていくなんて、現場としてはまっぴら御免だろう。
上層部からは作家を殺した編集部なんて汚名を被せられてるんだぞ。
声を上げないと作家を守る前に自分達が上から殺される。
あのレベルの作家が自殺に追い込まれて連載中止だぞ
雑誌の規模から見ても廃刊危機だろ
そりゃ編集現場は反発する
実際に作家とやり取りするのもここだしな
そりゃそうだよ。
このままだと小学館上層部のせいで、現場の編集部・編集者まで世間から「芦原先生の自死の片棒を担いだ」扱いされて、社会的に抹殺されかねない。
相沢友子が日テレ裏切って「芦原先生の死の責任」からトンズラしたのだって、個人的にはとても責められない。友人・知人・親類縁者――全てから存在を抹殺されるなんて、誰だって嫌だろうし怖いだろう。脚本家としての姿勢・思想はこの際は別に置いておいて、人間の命と死はそれだけの重さがあるって事だ。
・日テレ上層部
・日テレのドラマ制作部門
・プロデューサー
・小学館の上層部
さて、責任の所在が絞られてきた印象である。
日テレからの報告
社内特別調査チームの調査結果
撮り直しに関しては、原作者が問い合わせたシーンに対し、制作サイドが「既に当該シーンは撮影済み」と回答。だが、実はこのシーンの撮影は5日後に行われた。この事実を原作者が知り、信頼関係は破綻した。
日テレ「脚本家から原作者に攻撃していいか聞かれてOK出したけど、よくよく考えてみると例えダメだと言ったり契約で一切するなと縛っても、脚本家は勝手に投稿したと思うからワイらは悪くない」
小学館からの報告
小学館「ふざけんな、日テレが悪い(要約」