僕は【戯れ記事《ゴト》遣い】

「戯れ言遣い」ならぬ「戯れ記事遣い」を名乗るブロガーです。 雑記系ですが、読んで損したと憤慨されても困ります。 だってコレは「戯れ言」だから――

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【シン・エヴァンゲリオン劇場版:||】戯れ言――碇シンジが最終的に結ばれたヒロインについて【ネタバレ注意】

【シン・エヴァンゲリオン劇場版:||】碇シンジが最終的に結ばれたヒロインについて【ネタバレ注意】

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さあ、今日も戯れ言 記事 ゴト を始めますからね

 

この記事は2021年3月10日が初アップだ

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新劇場版は完全独立しているのか

とりあえず現時点(2021年3月10日)では、まだ『シン・エヴァンゲリオン』は視聴していない。アマプラかdアニメにアップされたら観る予定だ。

追記)アマプラにアップされたので視聴しました。うん、完結編としては良かったと思うけれど、映画単体としては冗長で、3割はカットできた印象。

 

TV版、旧劇、新劇Qまでは完走している。

 

旧劇のラストで充分に「終わった」と思っていたので、新劇場版でのリファインは良くも悪くも驚いた――という記憶も懐かしい。序で2007年だもん。版権の関係で『ヱヴァンゲリヲン』という表記になっているのには苦笑した。なんてダサいロゴなんだ、と。

 

個人的には、

TV版=未完成で話数切れ

旧劇版=TV版を補完して完結

新劇版=旧劇のリファイン

 

こういった解釈になる。

ただし「単純な」リファインに終わらせない為の仕掛けの1つ=真希波・マリ・イラストリアスという新規キャラだ。今回のラストで色々と物議をかもしている要因。

このリファイン版はマリというキャラのみならず、新劇3作目のQにおいて旧劇版との決定的な分離を果たしている。

そのQがなく、旧劇版との差異が小さければ新劇版は一切観なかっただろう。新劇版はQから観て、次いで序破を確認したのだ。マリとか式波という新ファクター程度では、また最初からエヴァを観ようという気にならなかったのである。

 

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ついにエヴァも真の完結を迎えた
流石にもうリファインはないはず

この記事の内容は、あくまで個人的な見解・意見に過ぎませんよ

旧シリーズと新劇は別物だと思う

ちなみに旧シリーズ=TV版および旧劇版と包括させてもらう。

Wikipediaでは『旧世紀版』とされていた。

 

まあ、あれだ。各所に溢れ返っている『シン・エヴァンゲリオン』のネタバレを読む限り、新劇版はこういった流れだろう。

 

序⇒破⇒(14年経過)⇒Q(急)⇒シン(真、新、原罪)

 

つまり時系列的にQが異端児ではなく、前半2部と後半2部において14年という時で区切られているというわけだ。

Qで旧劇版から別ルートに入った印象は、喩えるのならば『Fate』や『月姫』の裏ルートに通じるものがある。ちなみに『桜ルート』と『秋葉(遠野家)ルート』の事ね。『桜ルート(Heaven's_Feel)』はグランドフィナーレみたいに表現されているけれど、タイガー道場で「裏ルート」的と発言されていた。ってか『桜ルート』が真ルートだと、凛が士郎をアーチャーとして召喚できるのが決定的な矛盾になってしまう。ご存じの通り、士郎は「表ルート」の2つ『アルトリアルート』『凛ルート』において、どちらでも最終的に凛と恋人同士になる=凛が英霊エミヤと縁ができる、だ。

 

話が脇道に逸れた。

 

喩えとして「裏ルート」的って表現したのは、僕みたいな『旧世紀版』を視聴済みの者からの視点であって、『旧世紀版』を未視聴で新劇場版のみの視聴(新規ファン)であっても、普通に理解できる話の筈だ。

と、思う!

たぶんだ。そう推察するしかない。だって『旧世紀版』の記憶を完全に消せない以上、そこばかりは僕にはどうにもならないという(苦笑

 

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メタ的には旧シリーズも包括かな?

ネタバレによると、ニアサードに続いてバーゲンセール的にインパクトが続いたそうだが、最後にシンジは《ネオン・ジェネシス(新世紀)》なる世界改変を、ミサトさんから託された最後の槍によって行うのだそうだ。

エヴァンゲリオンが存在しない新しい世界を、シンジが自らの意思で創造する。

 

『旧世紀版』『漫画版』『パラレル展開の作品群』『新劇場版』と色々あったが、各シリーズごとの繋がりは名言されていない。

惣流と式波の繋がりもない。

式波は(性格も含めて)設定が異なる惣流アスカそのものである。クローン式波のオリジナルが惣流とか、2人は世界線を跨いだパラレル的な関係とか、そんな設定はない。普通に「同一人物」と解釈するしかない筈だ。

 

だからこそリメイクによるスターシステム的な結果というよりも、「違う世界線」での同一物語(ループ的な要素あり)と「ファン視線でメタ的に解釈」できるように《ネオン・ジェネシス(新世紀)》にしたのかな。

メタ視線を無くせば、別にループ要素なんて無くて、単純に「最後の最後だけ」魔法少女まどか☆マギカ的なオチにしたってだけになる。エヴァンゲリオンをオマージュしたラーゼフォンというアニメが有名であるけれど、ラストのオチはそのラーゼフォンから逆輸入したとも言える。

 

ま、手垢のついたオチの1つだ

 

けれど前途した2作品は「主人公が特別な存在」に昇華するのに対して、エヴァシリーズの場合、シンジは普通の少年(青年)として今後を生きる事になる。『魔法少女まどか☆マギカ』の真主人公はほむら、というツッコミはここではしない様に。

 

単なるリファインではなく旧シリーズも含めて「エヴァンゲリオンを終わらせる」という意味を新劇場版が担っているのならば、どうしたって完全に近い種明かしは必要なわけで。

そうなってくると旧シリーズみたいな「視聴者に想像や解釈の余地」を残すストーリーや締めはダメである。シンプルに、どストライク的な王道をいくしかない。

 

庵野秀明が序と破を作り終えてから、悩みに悩んだのは想像に難くない。

 

どうやって種明かししようか、と。

オチ自体は、世界改変で悩まなかったと思う。

悩むのは種明かしする為のストーリーライン。

 

『ひぐらしのなく頃に解』と同じく旧シリーズ(旧世紀版)をトレースした回答編にするか、前途した『Fate』『月姫』的な裏ルート手法を採るか。

 

後者を選択した結果、Qで14年間も劇中での時間をスッ飛ばしたのだろう。

旧シリーズが存在しなければ、14年飛ばしなんてしなかった筈だ。だって、14年も時間を飛ばす意味がないのだから。

なお、多くのファンは『ひぐらし』の回答編方式を望んでいた模様。

 

最後の最後に、意外なヒロインとのENDになっていましたね

マリと結ばれた事に意味はない

マブラヴENDでも問題なかった

 

アニメ化されたスピンオフ2作(トータルイクリプスとシュバルツェスマーケン)に続いて、ようやく本編がアニメ化される。エヴァンゲリオンを知っていて、マブラヴを知らないという人は少数派だろうから、オチは説明不要だろう。

 

今回のシン・エヴァンゲリオンをマブラヴ風にすると――

世界改変された(エヴァンゲリオンが存在しない)新しい日常にて、碇家は父のゲンドウと母のユイが健在。レイはユイのクローンではなく、別人として新たに存在し、シンジと出逢う。アスカも同じ。シンジの戦いは終わったが、再び(母親のクローンではない)レイと(同じく過去が消えた純粋な)アスカと出逢ったシンジの日常はこれから始まる。

 

アンリミ世界、オルタ世界での武ちゃんの戦いは終わったけれど、ちょっぴり良改変されたエクストラ風の世界で、新しい武ちゃん(オルタ世界での記憶は消滅)のラブコメ学園生活が始まるよ、となったマブラヴと同じ終わり方でも問題ないのだ。

 

それで多くの視聴者は幸せになれた筈。

 

だが、庵野はそうしなかった。

ファンの満足を慮外した。

シンジと過去(世界改変前)の記憶を共有しているのは、肉体年齢2歳上で精神年齢が30歳上のマリだけで、明白に彼女を恋人として選んでいる。リリスである綾波レイはアダムである渚カヲルと並び、シンジはアスカを過去として精神的に振り切っている。

シンジはレイとアスカとは再会せず、このままマリと共に歩む。

 

謎は明かしたし、ヒロインレース決着。

 

要は、マブラヴとは真逆に「シンジの戦いのみならず、視聴者が期待できるシンジのストーリーもスッパリと終わりなんだわ、HAHAHA」という意思表明だ。

 

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必要以上に庵野個人に対して踏み込むのも、なにか違うと思っている

マリのモデルは関係ないだろう

下世話な話だが、マリのモデルが庵野監督の奥さんで、かつて庵野はアプローチした宮村に袖にされて、エヴァンゲリオンは庵野の私小説的な面もある――と指摘を受けている。そういった側面を否定できない要素も、確かに散見できるだろう。

 

でも、マリENDに関しては、その面はあまり関係ないと思っている。

 

レイENDとアスカENDでなければ、きっと作り手側的にはどうでも良かった。

「全てのエヴァンゲリオンを終わらせる」ためには、テキトーなヒロインキャラと割とテキトーにくっ付く事こそが、〆に相応しいと庵野監督は心中で自虐していたのかもしれない。

 

エヴァンゲリオンがここまで伝説的な作品になったのには、主に2つの要因がある。

●レイとアスカのキャラ人気

 (腐女子におけるシンジ✕カヲルも)

●意味深な演出と明かされない謎

 (解釈の幅と考察が流行った)

 

『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズみたいに、公式HPにて「謎は最低限に」「必要な用語は可能な限り解説」方式を採っていたのならば、エヴァンゲリオンはここまでのコンテンツにはなっていなかったに違いない。

考察が好きな視聴者が謎や設定を深読み、解釈できなくなるからだ。

エヴァって専門用語や謎を含んだ言い回しを排除して、ある程度の説明台詞を追加するだけで、かなりストーリーが分かり易くなるし。

 

ぶっちゃけ、設定の難解さはエヴァンゲリオンよりシンフォギアの方が複雑というか、いくら頑張ってもアニメ本編視聴だけでは設定の1/3も理解できない(不親切な)仕様だ。そもそもシンフォギアは謎や設定、世界観で勝負する作品ではなく、ストーリーの勢いとノリ、バトルと掛け合い、そして歌が売りの作品(謎や設定なんて理解したり考察しなくてもOK)で、エヴァンゲリオンとはコンテンツの方向性が真逆であるが。

 

新劇場版の最終作において「色々と深読みしてくれたファンも多いが、これがエヴァンゲリオンの謎や設定の実相」と、可能な限り分かり易く種明かしをした。

悪い言い方をすれば、庵野監督はエヴァンゲリオンという作品に固執するファン達へ「ばぁ~~か、ばぁ~~か、エヴァって作品はお前らが深読みしているよりも単純な作品で、いい加減にそういった拗らせは卒業しろって」と嘲っている様だ。

それのみならず「ヒロインレース完全決着というカタチ」で、キャラ人気にも区切りを付けてしまった。

 

本当に「全て」が終わったのだなと思う。

 

旧約聖書をバックボーンに謎や設定をぼかし、特撮的な表現をアニメに落とし込んだのが受けた、 という「等身大のエヴァンゲリオンという作品」を、シン・エヴァンゲリオンは別解釈の余地を排除して「ありのまま」で世に示した。旧劇をなぞって「ミステリアスな深い作品」として風呂敷を畳まないでファンを煙に巻く方が、作り手としては簡単だった筈。でも、エヴァをエヴァにしていた要素を剥いで、正真正銘、シリーズを決着させた事は喝采に値すると感じた。

 

 

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